
フーデリ配達員には、絶対に信用してはいけない言葉がある。
それがこれだ。
「あと1件だけやったら帰ろう」
嘘である。
だいたい帰らない。
本人は本気で言っている。
本気で帰るつもりなのだ。
だが、帰れない。
なぜなら「あと1件」は、ただの1件ではないからだ。
あれは配達員界のラスボスである。
しかも倒しても翌日また出る。
魔王より勤勉。
町内会より出席率が高い。
こっちはもう来なくていいと言っているのに、毎晩きっちり出勤してくる。
本当に困る。
第一議案:帰宅推進党、ついに政権を取る
夜の稼働も終盤。
配達員の身体は、そろそろ人間から「疲れた乗り物」に変わり始める。
肩が重い。
膝が静かに文句を言う。
ヘルメットの中の髪型は、もはや人権を失っている。
ここで脳内に現れるのが、帰宅推進党である。
帰宅推進党は、非常にまともなことを言う。
「今日はもう十分やった」
「風呂に入れ」
「明日もある」
「身体は資本だ」
「そろそろ人間に戻れ」
正論である。
もう拍手したい。
ここまでまともな意見は、今日一日で初めてかもしれない。
風呂入りたい省も賛成する。
「賛成です。湯船が呼んでいます」
布団防衛軍も続く。
「これ以上の稼働は、睡眠領土への侵略行為であります」
ヒザ神も静かにうなずく。
「我が膝は、すでに残業を拒否している」
この時点では、脳内国会はかなり平和だ。
今日は帰る。
もう帰る。
家に帰って、風呂に入って、何か食べて、寝る。
そう決める。
だが、ここで一人だけ資料を持って立ち上がる者がいる。
売上未達対策本部である。
第二議案:売上未達対策本部、「あと数百円」という呪いの資料を配る
売上未達対策本部は、いつもタイミングが悪い。
いや、正確にはタイミングが良すぎる。
帰ろうとした瞬間に、冷たい顔で資料を出してくる。
「本日の売上、目標まであと620円です」
やめろ。
今それを言うな。
会議室が凍る。
帰宅推進党の顔色が変わる。
風呂入りたい省が目をそらす。
布団防衛軍が防衛線を下げる。
そして財布防衛大臣が、ゆっくりと立ち上がる。
「620円か……」
この一言が危ない。
非常に危ない。
1万円まであと数百円。
これが配達員を狂わせる。
9,380円なら、なぜか負けた気がする。
10,000円なら、なぜか勝った気がする。
その差、620円。
冷静に考えれば、人生を左右するほどの差ではない。
だが配達員の夜において、この620円は国家予算である。
人はここで知性を失う。
いや、知性はある。
あるのだが、売上画面の前では役に立たない。
知性は机上の空論。
承諾ボタンを押すのは指である。
そして指は、だいたい財布防衛大臣の味方をする。
第三議案:JOG保護委員会、エンジンの人権を訴える
ここで、車両側からも反対声明が出る。
JOG保護委員会である。
我が50ccのJOGは、今日もよく走った。
坂を登り、信号で止まり、住宅街を抜け、商業施設の周辺で人間の迷いに付き合ってきた。
もう十分である。
JOG保護委員会は言う。
「これ以上の酷使は、エンジンの人権侵害である」
いや、エンジンに人権はない。
だが言いたいことは分かる。
原付も疲れている気がするのだ。
ヘッドライトの光が、少しだけこう言っているように見える。
「もう帰ろうぜ」
分かる。
俺もそう思う。
帰ろう。
帰るべきだ。
しかし、売上未達対策本部がまた資料を出す。
「あと1件で、気持ちよく終われます」
出た。
気持ちよく終われる。
この言葉も危ない。
実際には、気持ちよく終われる保証などない。
むしろ「あと1件」で変な方向に飛ばされ、帰宅距離が伸び、風呂の時間が遅れ、翌朝の自分に恨まれる可能性の方が高い。
しかし、その時の自分はこう思う。
「まあ、1件くらいなら」
だめだ。
その「1件くらい」で、人は遠征に出る。
第四議案:帰ると決めた瞬間に鳴る怪現象
「よし、帰る」
そう決める。
スマホをしまおうとする。
グローブを直す。
原付の向きを帰宅方向に向ける。
その瞬間である。
ピロン。
鳴る。
なぜだ。
なぜ今だ。
さっきまで黙っていたくせに。
こちらが帰ると決めた瞬間だけ、急に話しかけてくる。
アプリ、お前、見てたのか。
心拍数を読んでいるのか。
帰宅意欲を検知しているのか。
ヘルメットを脱ぐ気配をAIが察知しているのか。
怖い。
もうただのアプリではない。
忍者である。
スマホを見る。
店。
距離。
単価。
行き先。
ここで帰宅推進党が叫ぶ。
「見るな!画面を見るな!」
しかし人は見る。
見てしまう。
人間はパンドラの箱を開ける生き物だ。
そして画面には、微妙に良さそうな案件が出ている。
悪くない。
だが良すぎるわけでもない。
帰り道とは逆。
しかし単価は少し良い。
最悪である。
これが一番迷う。
完全にダメなら蹴れる。
完全に神なら取れる。
問題は「ちょっと良い地獄」である。
地獄がクーポンを配ってくるタイプ。
一番タチが悪い。
第五議案:脳内国会、強行採決へ
帰宅推進党は反対する。
「今すぐ帰るべきだ」
風呂入りたい省も反対。
「湯船の温度が下がります」
布団防衛軍も反対。
「睡眠領土が侵略されます」
ヒザ神も反対。
「我が膝は、すでに閉店しています」
JOG保護委員会も反対。
「エンジンの人権を守れ」
ほぼ全会一致で反対である。
だが、財布防衛大臣が立ち上がる。
「しかし、あと1件で本日の数字が整います」
売上未達対策本部も続く。
「この案件を取れば、見栄えが良くなります」
見栄え。
売上画面の見栄え。
これもまた危険な言葉だ。
誰に見せるわけでもない。
自分で見て、勝った気分になりたいだけである。
だが、その「勝った気分」のために、人は夜道を走る。
ここで脳内国会は荒れる。
ヤジが飛ぶ。
机が叩かれる。
ヒザ神が足をさすりながら抗議する。
布団防衛軍が枕を掲げてデモを始める。
しかし、最後に決めるのは理性ではない。
指である。
ポチッ。
承諾。
帰宅推進党、崩壊。
風呂入りたい省、無言。
布団防衛軍、撤退。
JOG保護委員会、ストライキ予告。
ヒザ神、天を仰ぐ。
脳内に流れる。
「帰ると言ったな」
「あれは嘘だ」
第六議案:あと1件は、だいたい帰宅方向と逆に行く
不思議なことに、「あと1件」はだいたい帰宅方向と逆に行く。
これはもう法則である。
帰りたい方向にきれいに進む案件など、そう簡単には来ない。
アプリは言う。
「帰りたい? なるほど。では反対方向です」
やめろ。
なぜそうなる。
こちらは帰りたいのだ。
しかし、承諾してしまった以上、行くしかない。
原付を走らせる。
夜風が当たる。
さっきまで帰るつもりだった道を、なぜか反対に進んでいる。
人生である。
だいたい人生も、帰りたい方向とは逆に案件が飛ぶ。
急に深いことを言った気がするが、別に深くない。
ただ眠いだけである。
第七議案:届けたあと、少しだけ達成感があるのがまた腹立つ
あと1件を取る。
店に行く。
料理を受け取る。
届ける。
その間、ずっと思っている。
「なぜ取った」
「さっき帰ればよかった」
「風呂が遠のいた」
「布団が俺を待っている」
「JOG、ごめん」
だが、届け終わる。
売上が増える。
目標を超える。
画面を見る。
少しだけ、うれしい。
これがまた腹立つ。
「やってよかったかも」
と思ってしまう。
だから人はまた次もやる。
これが「あと1件」の恐ろしさである。
完全な失敗なら学べる。
だが、少しだけ報われる。
だから懲りない。
ラスボスを倒したと思ったら、ラスボスが経験値と小銭をくれる。
そりゃ次も行ってしまう。
ゲームバランスが悪い。
帰宅後、風呂で反省会が始まる
家に帰る。
ヘルメットを脱ぐ。
バッグを下ろす。
体から労働の湯気が出る。
そして風呂に入る。
ここで、脳内反省会が始まる。
「なぜ取った」
また出た。
今さらである。
もう終わった。
届けた。
売上も増えた。
だが、風呂の中の自分はやたら冷静だ。
「あの時点で帰るべきだった」
「明日の疲労を考えるべきだった」
「最後の判断が甘かった」
風呂場の自分は、なぜか名将である。
現場では指が勝手に押したくせに、風呂では軍師になる。
ずるい。
翌日の自分も言う。
「昨日、あそこで帰っていれば」
うるさい。
昨日の俺に言ってくれ。
昨日の俺は、財布防衛大臣に魂を売っていた。
それでも「あと1件」で助かる日もある
ここまで散々言ってきたが、「あと1件」が全部悪いわけではない。
実際、その1件で助かる日もある。
目標に届く。
支払いに近づく。
気持ちよく終われる。
「今日はやった」と思える。
だから難しい。
完全に悪なら、切ればいい。
でも「あと1件」は、ときどき味方の顔をする。
そしてだいたい、その顔がうまい。
「もう少しだけ頑張ろうぜ」
そう言ってくる。
やさしい声で。
そのくせ、行き先は帰宅方向と逆だったりする。
性格が悪い。
でも、嫌いになりきれない。
これが配達員の夜である。
結論:あと1件は危ない。でも今日も少しだけ見てしまう
フーデリ配達員にとって、「あと1件」はただの作業ではない。
それは、売上と体力と帰宅時間と翌日の自分を巻き込んだ、脳内大戦争である。
帰宅推進党。
風呂入りたい省。
布団防衛軍。
ヒザ神。
JOG保護委員会。
財布防衛大臣。
売上未達対策本部。
全員が好き勝手に喋る。
そして最後に、指が押す。
なんなんだ。
民主主義とは何だったのか。
今日もどこかで配達員は言う。
「あと1件だけ」
そして心の中の全員が、うっすら気づいている。
ああ、これは危ないやつだ、と。
でもヘルメットは脱がない。
スマホも閉じない。
原付もまだ帰宅方向に完全には向いていない。
つまり、そういうことだ。
鳴れ。
でも、変なのは鳴るな。
帰り道に近いやつだけ鳴れ。
また無理を言っている。
でも、それが配達員である。