
フーデリ配達員にとって、坂道はただの地形ではない。
あれは案件である前に、試練である。
地図上では近い。
たしかに近い。
直線で見れば「すぐそこ」に見える。
だが、問題は距離ではない。
高さである。
フーデリの地図は、たまに残酷だ。
画面上では、ただの線。
でも実際には、そこに坂がある。
しかも青葉区の坂である。
みたけ台、青葉台、藤が丘、桂台、長津田方面。
このあたりを50ccで走っていると、たまに思う。
「これ、配達じゃなくて登山では?」
いや、言いすぎではない。
背中には配達バッグ。
前には坂。
下ではJOGがうなっている。
もう完全に山岳ステージである。
第一議案:坂道案件、着弾
スマホが鳴る。
まず見るのは単価。
次に距離。
そして行き先。
ここで、住所や地図を見た瞬間、脳内の坂道対策本部が緊急招集される。
「これは平面の距離ではない」
誰かが言う。
その通りである。
これは横の移動ではない。
縦の移動だ。
地図上では2km。
だが、体感では富士山五合目である。
もちろん本当にそんな標高はない。
だが、疲れた配達員の心の中では、青葉区の坂はだいたい山である。
藤が丘から青葉台へ流れる。
みたけ台を抜ける。
桂台方面に吸われる。
このあたりで、脳内の地図が急に等高線だらけになる。
配達アプリには、ぜひ標高差も表示してほしい。
「距離:2.1km」だけでは足りない。
「魂の消耗:中」
「JOGへの負担:大」
「明日の膝:要注意」
これくらい表示してくれないと、現場の判断が間に合わない。
第二議案:ヒザ神、反対声明
坂道案件が見えた瞬間、脳内で最初に立ち上がるのがヒザ神である。
ヒザ神は、いつもは静かだ。
しかし坂が絡むと、急に発言力を増す。
「その坂は、明日の膝に禍根を残す」
重い。
言い方が重い。
もはや政治家の会見である。
風呂入りたい省も賛同する。
「帰宅後の回復時間を考えるべきです」
布団防衛軍も続く。
「睡眠領土に、これ以上の負担をかけるな」
まともである。
非常にまとも。
ヒザ神、風呂入りたい省、布団防衛軍。
この連立政権は、だいたい正しい。
しかし、正しさだけでは売上は増えない。
ここで、あの男が出てくる。
財布防衛大臣である。
第三議案:財布防衛大臣、単価の暴力を持ち出す
財布防衛大臣は冷酷だ。
人の膝の痛みなど知らない。
JOGのエンジン音も聞こえていない。
風呂の湯気も、布団のぬくもりも、全部無視する。
そして資料を一枚出す。
「単価は悪くありません」
やめろ。
その一言で会議室が揺れる。
ヒザ神が机を叩く。
「単価だけで判断するな!」
坂道対策本部も声を上げる。
「標高差を見ろ!平面距離に騙されるな!」
JOG保護委員会も緊急会見を開く。
「50ccに対する過度な期待は、ただちに見直していただきたい」
正論である。
我がJOGは、今日もよく働いている。
朝から晩まで、信号、坂、住宅街、商業施設、段差、路面の荒れに付き合っている。
これ以上の酷使は、たしかにエンジンの人権侵害である。
いや、エンジンに人権はない。
だが、気持ちは分かる。
原付の精が、涙目でこちらを見る。
「ボク、今日もう登ったよね?」
分かる。
本当に分かる。
でも財布防衛大臣は言う。
「しかし、単価は悪くありません」
冷たい。
青葉区の夜風より冷たい。
第四議案:最終的に押すのは、理性ではなく指
ここで脳内国会は大荒れになる。
ヒザ神、反対。
JOG保護委員会、反対。
風呂入りたい省、反対。
布団防衛軍、反対。
坂道対策本部、慎重審議を要求。
ほぼ全員が止めている。
しかし財布防衛大臣だけが笑っている。
「行きましょう」
怖い。
この人、膝が自分のものじゃないから言えるのだ。
だが、売上画面は強い。
数字は人を黙らせる。
そして最後に決めるのは理性ではない。
指である。
ポチッ。
承諾。
ヒザ神、絶句。
JOG保護委員会、解散の危機。
布団防衛軍、撤退。
風呂入りたい省、湯船の温度低下を懸念。
こうして私は、坂へ向かう。
なぜだ。
さっきまで帰りたかったはずなのに。
人間とは愚かである。
そして配達員は、その愚かさをヘルメットで包んで走っている。
第五議案:登坂中、人は急に信心深くなる
坂に入る。
JOGのエンジン音が変わる。
平地では聞かない種類の音がする。
「うおおおお」なのか、
「もう無理です」なのか、
「お前、なぜこれを受けた」なのか、
正確には分からない。
ただ、確実に何かを訴えている。
ここで配達員は急に信心深くなる。
「頼む、JOG。あと少しだ」
心の中で祈る。
後ろから車が来る。
さらに祈る。
「すみません、すみません、50ccなんです」
誰に謝っているのか分からない。
後ろの車か。
JOGか。
ヒザ神か。
それとも過去の自分か。
全部である。
坂の途中で、人は全方位に謝罪する。
そして心の中で、JOGに買収工作を始める。
「登り切ったら、次のオイル交換ちょっと早めにするから」
たぶんしない。
いや、するかもしれない。
でもこの瞬間だけは本気である。
人は坂の途中で、実現しそうでしない約束をする。
これが信仰である。
第六議案:登り切った瞬間、少しだけ登山家の顔になる
坂を登り切る。
目的地に近づく。
この瞬間、配達員は少しだけ勝った顔をする。
ただの配達である。
だが本人の気分としては、山頂アタック成功である。
「登った……」
心の中でつぶやく。
別に誰も褒めてくれない。
お客様は普通に料理を受け取る。
店も普通に料理を渡しただけ。
アプリも特に拍手してくれない。
しかし、こちらとしては一仕事終えた感がある。
なんなら、山頂で旗を立てたい。
配達バッグから小さな旗を出して、
「青葉区坂道登頂」
と書いて刺したい。
もちろんやらない。
不審者である。
第七議案:下り坂は下り坂で気を使う
登ったら、当然下る。
ここで油断してはいけない。
上り坂はエンジンがしんどい。
下り坂は集中力がしんどい。
あんなに苦労して登ったのに、下りは一瞬である。
位置エネルギーの無駄遣い。
人生の縮図である。
登る時はあれほど苦労したのに、下る時は早い。
だが、早ければいいわけではない。
50cc配達員は、下りでも調子に乗れない。
ブレーキ。
路面。
車。
歩行者。
カーブ。
そして疲れた自分。
下り坂で浮かれていると、ヒザ神どころでは済まない。
だから、静かに下る。
少しだけ勝った気分で。
でも調子には乗らずに。
青葉区の坂は、登りも下りも教育的である。
余計なお世話である。
第八議案:次の案件がまた坂の上なら、ヒザ神が辞表を出す
届け終わる。
坂を下る。
少し落ち着く。
「よし、次は平地で頼む」
そう思う。
その瞬間、スマホが鳴る。
見る。
また坂の気配がする。
ヒザ神が立ち上がる。
「辞めます」
早い。
辞表が早い。
JOG保護委員会も会見を開く。
「このままでは持続可能な原付運用に重大な懸念があります」
言い方が完全に企業の不祥事である。
しかし、財布防衛大臣は資料を出す。
「単価は、悪くありません」
またか。
またその言葉か。
この人は本当に危険である。
青葉区の坂より危険かもしれない。
結論:青葉区の坂は、案件ではなく地形イベントである
青葉区で配達する以上、坂とは付き合うしかない。
みたけ台にも坂がある。
青葉台にも坂がある。
藤が丘からの移動にも坂の気配がある。
桂台方面にも、長津田方面にも、気を抜くと坂がいる。
坂は逃げない。
むしろこちらを待っている。
フーデリ配達員にとって、坂道案件は単なる配達ではない。
単価、距離、体力、膝、原付、帰り道、翌日の疲労。
全部を巻き込む、地形イベントである。
そして50cc配達員は、その地形イベントに今日も挑む。
別に勇者ではない。
ただ、通知が鳴っただけである。
それでも、坂の前に立つと少しだけ思う。
「これ、案件じゃなくて登山では?」
今日もJOGはうなる。
ヒザ神は反対する。
財布防衛大臣は笑っている。
そして最後に、いつもの願いが出る。
鳴れ。
でも、変なのは鳴るな。
できれば、坂の角度も表示してくれ。
無理を言っている自覚はある。
でも、それが青葉区の50cc配達員である。